[第3章 新規利水(都市用水確保)の必要性はない関係]

第1 木曽川水資源基本計画(フルプラン)

第2 水道用水(第2・1水道用水について)

第3 工業用水

第4 地盤沈下(第3・1地盤沈下について)

第5 自治体予測の問題点、特に自治体が抱える過大な財政負担

第1 木曽川水資源基本計画(フルプラン)
11) 被告等は、最終準備書面(補充の2)において、フルプランと本件事業について、原告の反論に全く反論していない。
 特に、「木曽川フルプランを、所与の与件として行政の一部である認定庁の被告が尊重することは、法律による行政の建前からして当然のことである」(最終準備書面(補充)p6)と議論を提起したのは被告等自身である。にもかかわらず、原告が、「『法律による行政』は国民の権利を保護するために、行政に法律に基づくことを要求するのである」と「法律による行政」の正しい意味をあえて説明し、被告等が「法律による行政」の意味をはき違えていると述べたこと(原告最終準備書面補充書2p5)に何ら応えていないのである。
2) もちろん、被告等の理解が誤っていることからすれば、反論がない、というよりも反論できないのは当然のことであるが、自ら議論を提起しておきながらその論点に全く言及しないのは、最終準備書面(補充の2)のみならず本件訴訟を通して窺われる被告の姿勢である。
 すなわち、被告等は「木曽川フルプラン全体について合理性があるか否かを判断する立場にはない」とあくまで主張し、最終準備書面(補充の2)に見られるように、わざわざ項目を立てて「朝シャン」や「ガーデニング」(同書面(補充の2)p6、7)についてまで触れ、議論を矮小化している。
 これらの被告等の主張が誤っていることは後述するとおりであるが、被告等は議論を矮小化して本件事業認定の問題の本質を見失わせようとしているのである。本件事業認定の問題の本質は、図らずも被告等自身が最終準備書面(補充)でも述べたように、その内容を検討しなければならないにもかかわらず、「木曽川フルプランを、所与の与件として行政の一部である認定庁の被告等が尊重」(同書面p6)したことである。
 しかし、原告最終準備書面補充書2でも述べたように、「木曽川フルプラン」は行政処分でもなく、行政機関内部または行政機関相互の行為に過ぎない(同書面p6)。したがって、認定庁たる被告国土交通大臣が従うべき法律でも何でもない。それを「所与の与件」として判断する怠慢さが、度重なる推計の誤りを招いてきており、本件訴訟においても需要推計の誤りとして反映されているのである。被告等が総務省の「水資源に関する行政評価・監視結果に基づく勧告」に言われているような「計画についての総括評価」「計画達成度についての点検」「推計方法等の検証」などの当然行うべき措置を講じていれば、同じ過ちは繰り返されなかったのである。
3) 以上述べたとおり、被告等が最終準備書面(補充の2)において「木曽川フルプランと本件事業について」の論点に全く言及しないのは、被告等が議論を矮小化して本件事業認定の問題の本質を見失わせようとしていることに留意されなければならない。
2 木曽川水系における水余りの実態と開発水の相互調整について
 この点、被告等は、最終準備書面(補充)で、「(原告らの)主張が失当であることは被告最終準備書面130及び131ページにおいて述べたとおりである」と述べたきり何ら反論していない。
 被告等が、「異なる利水主体が同一河川(木曽川)から取水しており、また同じ利水主体間の異なる用途においても同一河川(木曽川)から取水している」という水源施設、供給地域と取水点の関係に目を瞑り、これを覆い隠し続けていることを再度指摘しておく。このような実態からすれば、開発水の相互調整が極めて容易であることは明らかであり、このことは、実際に行われている移譲の実態(甲22の2)からだけでなく、本件事業認定に際して提出された資料である乙115p129、130の「転用について(一般水系)」「水利転用水道負担額等の過去の実例」からも明らかである。
 被告等が上記実態に目を瞑り、当然考慮すべき事項を考慮せずに判断していたことは明白である。

第2 水道用水(第2・1水道用水について)
1 被告等最終準備書面(補充の2)に対する反論・批判
 1)((1)不況について)
 この項に関係する原告最終準備書面補充書2の[「1)「不況」に逃げ込む被告等の姿勢]で述べたことが、上記補充書2における被告等との水道用水に関する論争の核心的部分である。特に、イ)d)からハ)で述べたこと(p10〜159)は消費支出や景気動向と1人1日使用水量(有効水量)との関係について述べたもので、その中心部分である。1人1日使用水量の問題の理論的な深化が一層なされた。
 被告等は上記イ)d)からハ)で述べたことついては、理論的、本格的な反論は全くしなかった。また、「景気」がなぜ、どのようにして1人1日使用水量の増減に影響するのかの説明を今回もしなかった。もはや、原告がそこで述べたことは反論のしようがなく、共通の理解事項と認めなければならなくなったからである。
 被告等は、「不況」は原告の主張に対する指摘のための言及であるという。そうすると、平成7年度から1人1平均給水量が毎年5.4L増え続けるということは、それを根拠づける理由や原因は示せない、あるいはその検討をしていないということである。被告等は、1人1平均給水量が毎年5.4L増え続ける根拠を検討することなく、これを用いて将来予測をしているのである。
 2)((2)愛知用水と木曽川用水の取水制限について)
 被告等は、愛知用水と木曽川用水における取水制限は「節水対象取水量」(乙169(D))を基準とすると主張し、名古屋市、愛知県尾張水道の取水制限について、水利権の「許可水利権量」(乙169(B))を基準としている原告の主張は誤りであると批判している(p3)。
 しかし、この記述は狡猾な記述である。愛知用水や木曽川用水に名古屋市水道や愛知県尾張水道に含まれるとことが、上記の被告等の論理が成り立つ前提であるが、そこにはその記述はない。名古屋市水道と愛知県尾張水道の取水と愛知用水と木曽川用水の取水制限を羅列することによって、名古屋市水道や愛知県尾張水道が愛知用水や木曽川用水に含まれていると思いがちである。しかし、名古屋市水道や愛知県尾張水道は独自に水利権を持ち、河川から直接取水する取水施設を有しており、水公団の管理する愛知用水や木曽川用水に依存しないにのである。
 そのうえ、そこでは、愛知用水や木曽川用水に名古屋市水道や愛知県尾張水道に含まれるとは記述していないから、これに含まれると誤解しても、それは誤解する者が厳密に文書を読まなかったから、という弁解が出来るようになっているのである。
 このように、意図的に曲解しているのは被告等の方であって、この点についてはすでに原告最終準備書面p48において述べた。すなわち、乙169を見ればわかるように、「節水対象取水量」というのは、水公団の管理する木曽川用水や愛知用水、つまり、あくまで水公団に対する「申込水量」なる概念が存在する場合を前提とするものであり、木曽川用水など水公団管理の取水施設(木曽川大堰等)からの取水を前提とするものである。水公団管理の取水施設を使用せず、犬山及び尾西において河川から直接取水している名古屋市水道と愛知県尾張水道には、そもそも「申込水量」というものはなく、乙169(D)の「節水対象取水量」なる概念もないのである。
 3)((3)資料整理の基本について)
 原告は、最終準備書面補充書2p9において、消費支出動向と一人一日有効水量の得られた資料数値から、両者に相関関係があるかを検討するのであるから、両者の全資料数値を使用するのが科学的な資料整理方法であるという、最も基本的な初歩に属することを述べたのである。そして、一定の資料数値を使用しなかったり、一定の数値のみを使用するのは、結論に合わせて数値を恣意的に選択することであって、資料整理としては違反であって、してはならないという、これまた当然のことを述べたまでである。
 これに対し被告等は、最終準備書面(補充の2)p4においても、「名古屋市の昭和52年から昭和60年まで」(被告最終準備書面p81)を「除けば」と繰り返すのみである。上記名古屋市の資料数値を除く根拠すら示していない。被告の反論は、全く何の反論にもなっていない。
 乙154において、名古屋市の昭和52年から昭和60年までの資料数値があることにより、消費支出動向と一人一日有効水量に相関関係が乏しいことが示されているのである。そこでは、被告等が証人在間の反対尋問から言い出してきた消費支出動向に応じて一人一日有効水量が変化するとう仮説が根拠がないことが明らかにされているのである。その意味で、乙154は重要な証拠である。
 被告等は、自分の仮説に合う結論を導きすために、乙154の資料数値のなかから、自己に都合の悪い名古屋市の昭和52年から昭和60年までの資料数値を除いているのである。
 4)((4)節水努力について、(5)水使用量の増加要因について)
イ) 原告は、最終準備書面補充書2の1)f)(p12〜13)において、被告等が1994年以降の水使用量の頭打ち・停滞について、不況をその理由としており、不況による「節水努力」を根拠としているかに見えたので、節水努力について分析・検討を行い、消費支出や景気の好不況と水使用量の関係について、核心的、理論的な説明を行ったのである。そこでは、消費支出による水使用設備の普及に基づく使用量増加の基盤(ベース)とその上にたった放漫・節約による使用水量の変動(ブレ)を明らかにした。
 これに対し被告等は、最終準備書面(補充の2)p4においても、原告の上記分析に何ら本格的、理論的反論を展開せず、不況時の節水型設備の普及の停滞とシャワーの利用や洗車、散水等が増加要因になると述べるのみである。上記の原告が分析して指摘した水使用設備の普及による水使用量の基盤・ベースと水使用の放漫・節約による水使用量の変動・ブレという理論的なことについては何も述べない。最も重要なことについて、何も述べないのである。
ロ) 被告等は、貯蓄を増やし消費を控えるために節水努力をしていると考えることが自然であり、このような時期に大きな投資を伴う節水型への水使用設備の変更を行うと考えるのは無理があると述べるが、全く非科学的としかいいようがない。
 洗濯機、水洗便器、食器洗浄機などの価格からみて、その購入が大きな投資とは考えられない。また、不況であっても、洗濯機等の水使用設備の更新による買い換えがなくなるわけではなく、買い換えた際、設備自体が改良され水使用量が少ないものになっているのであるから、水使用量は減少する。好況になってもこれが使用されるのであるから、水使用量は減少したままである。また、最近の食器洗浄機は、食器洗浄機を使った方が使わないより食器洗浄の際の水使用量が少ないとされており、便利でかつ節水により水道料金が安くなるのであれば、不況であっても食器洗浄機を購入する動機もある。そして、好況であれば、便利な設備である食器洗浄機の購入が増えるとすると、食器洗浄用の水使用量はさらに減少することになる。食器洗浄機が普及することにより、食器洗浄用の水使用量は減少していくのである。
 被告等は、大きな投資を伴う節水型への水使用設備の変更を行うと考えるのは無理があると言いながら、他方で、最終準備書面(補充)では、洗髪用洗面化粧台、温水洗浄便座は増えているという。これらは、洗濯機、水洗便器、食器洗浄機と比較しても、これらと変わらない価格である。被告等は、その説明において自ら破綻している。節水型設備は不況でも普及するのである。
ハ) 洗髪用洗面化粧台や温水洗浄便座は、水使用設備であり、理論的には水使用要因として、水使用量の基盤・ベースになりうる設備である。これらの設備の普及率が上昇すると、それは水使用量基盤の増加となる。それがあれば、景気の好況、不況とは関係なく水使用量を増加させる要因であって、その意味で、景気とは関係がないことである。被告等の最終準備書面(補充の2)p5の洗髪用洗面化粧台や温水洗浄便座の普及についての記述は正しくない。
 もっとも、洗髪用洗面化粧台や温水洗浄便座の普及が実際に水使用量を増加させているかは、水使用量の実績と比較検討して、結論を出すべきことである。それを検討して述べたのが、最終準備書面補充書2p16のこれらの設備の普及率の推移と名古屋市の1人1日家庭用給水量の推移の比較検討である。これらの設備の普及率が上昇しているにのに、名古屋市の人1日家庭用給水量は横ばいに推移している。これらの設備は、水使用量の増加に影響を与えていないのである。
ニ) 世帯細分化が1人1日水使用量の増加要因であるかについての、原告最終準備書面補充書2p13の記述については、何の反論もなかった。この問題については、上記補充書2の記述によって決着がついた。
ホ) 結局、被告等の主張は、場当たり的としか思えない。被告等は、水使用量の増加要因について科学的な分析手法を放棄し、増加要因についての一貫した考え方、論理というものが全くなく、一見増加要因と思えるものを連ね、それが実績による根拠付けが伴わないと、すべて「不況」のせいにし、最終的には何の根拠もなく「好況」になれば水使用量が増加するはずだというところに逃げ込むのである。
 5)((7) 朝シャンについて、(8) ガーデニングについて)
イ)原告は、最終準備書面補充書2第6・23)のp16において、シャワー(洗髪用洗面化粧台)、温水洗浄便座や洗車などが、1人日使用水量の増加要因になるかについて、理論的に明らかにした。
 すなわち、増加要因とされるものが全ての人に共通の事柄のときは、1人1日家庭用給水量の増加要因として大きいが、それが一部の人に限られる事柄のときは、1人1日家庭用給水量の増加要因としては小さい。また、毎日必ず行うものも増加要因として大きいが、たまにしか行わないものは増加要因としては小さい。また、家庭用水の他の使用方法が置き換わったときは、基本的には水量には変化がないのである。洗髪シャワーも洗車もガーデニングも一部の人の、たまたまの、置き換えのものである。温水洗浄便座は、回数、時間、量が限られいる。
 そして、これらの普及率の上昇があれば、1人1日使用水量が増加していかなければならない関係にある。しかし、被告等最終準備書面(補充)の別紙によると、洗髪用洗面化粧台、温水洗浄便座の平成4年から平成14年までの各普及率は一貫して増加しているが、その間の名古屋市の1人1日家庭用給水量は220L前後でほぼ横ばいである(乙151の2)。この両者の関係を見れば、これらが増加要因として作用しているとは認められない。
 被告等は、以上の重要な理論的なことことについては、反論をしない。朝シャンやガーデニングのような末節のことについて、さらにその隅のことに過ぎない反論をするのみである。被告等の意図は、重要な理論的なことから目をそらせて、基本的なことを忘れさせることにあるようである。
 それにしても、被告等の1人1日水使用量増加の説明は、後退に後退を重ね、ついには、「朝シャン」と「ガーデニング」になってしまった。
ロ) 朝シャンは夜間の入浴時の洗髪が置き換わったものである。入浴時に、浴槽に貯められた湯を洗髪に使用すれば、浴槽では湯が減るので湯の補充がなされる。シャワーを使って洗髪している人には、単なる洗髪時刻の変更にすぎない。入浴時の洗髪と朝のシャワー洗髪とで、使用水量にどれほどに違いがあるのか。何ほどの違いもない。
 被告等が朝シャン1回の水使用量が120Lという非常識な水量を主張している理由が分かった。被告等は、実際にシャワー洗髪に要する水量を測定して求めたのではないのである。要するに、単に、10分間シャワーを出し続けたときの水量なのであり、それが120Lなのである。これは丁度、浴槽に湯を貯めるのに湯を出し続けるのと同じで、260Lの浴槽は20分程度で240Lの適量になり、その半分の量が120Lである。シャワー洗髪で必要な湯は、髪を濡らすときと、石けんやリンスを洗い落とすときである。これらに用する時間は、合計してもわずかであり、到底10分にはならない。
 シャワーは2.7L洗面器を20秒で満杯にする湯量があるとすると、洗髪に洗面器を使用した場合、2回の石けん洗髪、リンス使用でも10〜13回、せいぜい15回程度の使用であろうから、その合計量は27〜40L程度である。洗面器で湯をかぶると、一挙に流れるので石けん分を流すにの必要な湯量を超えて無駄な湯が流れる。しかし、シャワーはそれよりも時間当たり量(流量)が少ないので、効率的に石けん分を洗い流せる。洗髪使用水量はシャワーのほうが少ないと予想される。120Lは洗面器44杯分の量であり、一人が使う量をはるかに超えた洗面器使用量であって、約4人分の量に相当する。被告等のいう120Lがいかに過大であるかが分かった。
 園芸用品の売上高が増加していて、それが散水使用量、さらには水道用水使用量の増加を起こすというのは、飛躍があるといわなければならない。実際に、1人1日家庭用給水量は横ばいなのである。
 結局、被告等には、水使用量の増加要因についての科学的な分析がなく、一貫した考え方がないため、何の説得力もない。
 6)((6)津市と名古屋市の比較について)
 被告等は、最終準備書面(補充の2)p5において、原告が「甲81号証を誤読している」と述べる。その主旨は不明確な部分が多いが、以下のように思われる。
 原告は、最終準備書面p50〜53において、津市と名古屋市の比較の問題について、三重県統計書における津市の「家庭用」有収水量には、津市の料金体系が口径別になっているから、家庭用のほか営業用も官公署学校用も含まれており、名古屋市の場合の水道統計の「家庭用」と単純に比較できないことを述べた。
 これに対し、被告等は、最終準備書面(補充)p10において、「津市の料金体系は口径別であるが、………基本料金は口径別、従量料金は用途別になっていることから、用途別の統計もとって」いると反論した。
 しかし、原告は最終準備書面補充書2p15において、甲81の津市の水道料金表によれば、従量料金の用途別で、一般用と区分されているのは「浴場用」と「一時用」であって、口径別で整理されて家庭用とされるφ13mmやφ20mmの有収水量から、「浴場用」「一時用」以外の営業用、官公署学校用は差し引かれておらず、結局、三重県統計書における津市の「家庭用」と名古屋市の場合の水道統計の「家庭用」とは前提が異なり、単純に数字だけ比較することはできないことを明確にした。
 被告等の最終準備書面(補充の2)p5の批判は、結局のところ、利用者に対するお知らせのなかの、「公共下水道を使用している家庭は」とか「各家庭に通知させていただきます」とある「家庭」という字面だけをとって、「家庭用」であることは明白と述べるようである。
 しかし、甲81号証の字面だけをとって中身を全く理解できていないのは被告等の方である。津市の水道料金体系は口径別であるから、この「家庭」とは利用者のことであって、営業用や官公署学校の利用者も含まれている。「家庭」とは一般市民に対するお知らせであるから、お知らせの主たる対象であり、代表的な利用者は家庭であるので、「家庭」を用いたに過ぎないのである。決定的なのは、このようなお知らせでどのように記載されているかではなく、料金体系でどのようになっているかである。津市では、水道料金体系は、用途別になっているのは、一般用と浴場用、一時用だけ、一般用は全て口径別であって、家庭用、営業用、官公署学校用などに分けられていない。したがって、このような料金体系では、一般用の水量からから営業用などの水量を全て差し引くこと困難であり、一部しか差し引かれないのである。その結果、最終準備書面p52で述べたように、津市と名古屋市の統計における用途別有収水量と水道統計における口径別水量の1人1日水量の差の大きな違いに現れているのである。
 したがって、原告が明らかにしたように、「家庭用」と集計されていても、乙151の2のように、営業用や官公署学校用の分が除かれた一般居住世帯が使う水の量に最も近い統計上の水量を表したものと、営業用や官公署学校用も含まれたものとがあり、同じく「家庭用」とあっても、単純にその数字だけ比較することはできないのである。
 にもかかわらず、一般向けのお知らせで、「家庭」という字が使われているから「家庭用」であることは明白だなどというのは全く反論の体をなしていない。お知らせのような広報や通知での字面の問題ではなく、水道料金体系の中身の問題なのである。
 原告は、最終準備書面補充書2p15において、「浴場用」「一時用」とあるのを「用途別」などと読む者を誤解させる汚い手法をつかう狡猾なやり方をすべきでないと述べた。被告等の最終準備書面(補充の2)の一般向けのお知らせの字面だけとって「家庭用」だと言う手法は、もはや狡猾というより滑稽としか言いようがない。
2 被告の水需要予測の不合理性
1) 上記のように、被告最終準備書面(補充の2)の原告の主張に対する反論は、被告等が原告の主張を理解していないものや、正面から答えていないものばかりである。
 さらに、被告最終準備書面(補充の2)「(1) 不況について」や「(9) その他」で原告の主張を正すために指摘したにすぎないなどと主張するように、被告等には自らの水需要予測の合理性を積極的に主張・立証しようとする姿勢が全く見られない。被告等の主張に対する原告の反論に対し、反論にならない反論を繰り返すのみであり、自らの主張を積極的に根拠づけるものは一つもない。上記のように、被告等の主張は、場当たり的にされているとしか思えず、水使用量の増加要因について科学的な分析手法を放棄し、増加要因についての一貫した考え方、理論というものが全くなく、非科学的に一見増加要因と思えるものを連ね、実績が伴わないと、すべて「不況」のせいにし、最終的には何の根拠もなく「好況」になれば水使用量が増加するはずだというところに逃げ込む姿勢は明らかである。
 そもそも、被告等が自らの水需要の合理性を言わねばならぬはずであるにもかかわらず、このような姿勢に終始すること自体が、被告等の水需要予測の合理性を積極的に立証することができないことの証左であり、立証しようとして過去の実績データを出しても、それが却って原告の主張の正当性を明らかにする結果となり、最後は「朝シャン」や「ガーデニング」の小手先の議論で場当たり的に原告に反論するのみとなった。
 このような結果となったのも、過去の実績を踏まえて将来の水需要を予測するという最も基本的な点が欠如していたからである。先に徳山ダムを必要するような水需要予測が必要という結論があり、過去の実績について恣意的にデータ操作して無理に水需要予測をした結果、水需要予測の合理性を積極的に立証することができなかった。そして、過去の実績データを出すと却って不合理性が明らかになり、ついには、原告の主張に対し場当たり的に批判を加える他なくなってしまったのである。
2) 水需要予測は、まずは当該供給予定地域の過去の実績から出発しなければならない。そして、過去の実績についてのデータを恣意的に選別してはならない。ありのままの過去の実績を、科学的に要因分析しなければならない。
 人口が近い将来減少に転ずることはもはや公知の事実である。1人1日平均給水量の過去の実績が横ばい傾向にあることは明らかであり、その要因分析を行えば、水需要は頭打ちであって、今後も横ばい傾向が続くと推測するのが合理的なのである。
 人口が直線的に増え続け、1人1日平均給水量も年当たり5.4Lずつ増加し、500L台となるという水公団の予測は、過去の実績と大きく乖離した不合理なものであり、水道統計などの資料によって乙151の2などを作成してきた被告建設大臣は、その不合理性を本件事業認定処分時に十分認識していたことは明白である。

第3 工業用水
 工業用水については、被告等は何も反論をしなかった。原告最終準備書面補充書2の記述で決着がついたとみてよい。

第4 地盤沈下(第3・1地盤沈下について)
1 甲36p19の「累積沈下量の大きい水準点位置図」で、最近5年間において累積沈下量の大きく、この10年間の累積沈下量が5〜10p程度あり、毎年1p前後のわずかであるが継続的な沈下が観測されている水準点▲印は、共通して河川堤防沿い、それも揖斐川沿いである。このことについては、被告等も「▲が河川沿いに存在することは分かる」として同見解である。
 地盤沈下の要因は、過剰地下水揚水による地下水位の低下だけではない。それは、濃尾平野での沈下変動量の83〜95%であり、それ以外にも、軟弱粘土層の自然圧密による収縮、基盤の沈降や傾動運動(濃尾傾動盆地運動)が継続的な地盤沈下の原因なのである。
 河川沿いは地層形成が若く、粘性土層の自然圧密による収縮も収縮過程にあり、収縮が完結していないことが多い(甲89p143)。また、砂質土層でも堆積が新しいので、粒子の結合も緩く、間隙部分が多いので、振動等(車両の通行は振動原因の一つである)によって粒子結合が密に変化して、間隙部分が少なくなって、地盤沈下を引き起こすことがある。
 また、▲印の地点は、多くが濃尾平野西部、特に揖斐川沿いである。濃尾平野は、基盤が養老断層を端にして西側ほど大きく沈降する濃尾傾動盆地運動があり、岐阜県の揖斐川沿川は最も沈降している地域であり、この地域は現在も沈降を続けている(甲89p143、38、39、68〜72)。これによる地盤沈下があっても当然である。
 したがって、▲印の地盤沈下は、地下水位の低下以外に、これらの要因を考えなければならないのである。特に、年間1p前後のわずかな沈下であるので、これらの可能性を考えなければならない。後記のように、地下水位は地盤沈下を引き起こす水位でないので、一層その可能性を考えるべきである。
21) 上記の濃尾平野南西部などの地域が、地盤沈下を引き起こすような地下水位であるかは、地盤沈下の記録がある昭和30年以前の地下水と比較することが最もよいのは当然である。だが、そのような資料がないのであるから、それは不可能である。
 しかし、それしか方法がないわけではない。濃尾平野で激しい地盤地下と地下水位の低下が観測されたのは、昭和40年代と50年代初頭である。その後、この激しい地盤沈下が観測された地域では、地下水揚水規制により地下水位が回復して、地盤沈下が沈静してきている(甲35p14)。したがって、地盤沈下が激しかった地域の地下水位の状況と比較してみれば、これらの地域の地盤沈下と地下水位の関係をみることができる。被告等がいうようなことは既に考えたうえで、原告最終準備書面p97は詳しく述べているのである。
 地下水位が観測されている五町、大須、墨俣、大垣の各観測所地下水位は、観測当初(昭和46〜52年)から比較的高い地下水位のままで変わっていない(甲36および52p59、61、62)。これに比べて、1960年代に地盤沈下激しかった地盤沈下対策等要綱の規制地域(例えば、松中、飛島、十四山)の地下水位は、これら観測地域よりも、観測当初(昭和46〜52年)は20p程度も低く、現在も同程度までに回復していない(甲36および52p51〜53)。これらの規制地域では、地下水位の回復によって、地盤沈下量が極めて少なくなり、地盤沈下が沈静化している(甲36p14、甲52p17)。したがって、近年地盤沈下が観測されている岐阜県の観測地点では、その地下水位は、以前激しい地盤沈下を起こし、その後地盤沈下が沈静化している地域の地盤沈静化時の地下水位よりも高いのである。したがって、地盤沈下を引き起こすような地下水揚水量や地下水位ではないのである。そこの地盤沈下は地下水揚水による地下水位の低下以外の沈下原因を考えるべきである。
2) 地盤沈下は砂礫帯水層の地下水位が低下して、その上下の粘土層から水がゆっくりと絞り出されることにより、粘土が収縮して生じる現象である。地盤沈下は地下水位が低下して、瞬時に、あるいは急速に起こるのではない。したがって、地下水位の低下として重要なのは低い水位の継続期間である。一時的に地下水位が低くても、速やかに水位が高くなれば、粘土の収縮は起きにくく、地盤沈下への影響は小さい。
 したがって、当該地点の地下水位が、最も期間の長い水位のときで、あるいは水位が高いときで、地盤沈下を起こす地下水位であるかが重要なのである。「地下水位が下がったとき」というのは、「一時的に地下水位が下がったとき」ではなく、「粘土からの水の絞り出しを起こす程度に地下水位が下がったとき」なのである。
 上記のように、五町、大須、墨俣、大垣の各観測所地下水位は、以前激しい地盤沈下を起こし、その後地盤沈下が沈静化している地域(例えば、松中、飛島、十四山)の地盤沈静化時の地下水位よりも高いのである。
3) 甲36の2p29の[尾張工業用水道供給区域における給水量、地下水揚水量(全用途)、稲沢観測所の地下水位の関係]の図では、平成6年の状況は以下のことが読みとれる。
 地下水揚水量(全用途)は、5月まで同程度であったが、6月から増加し始め、7月から大きく増えて、8月に最大になり、その後減少して、10月には6月以前の水準になっている。地下水揚水量が多かったのは7〜9月の3ヶ月である。例年、6〜9月の地下水揚水量は他の月に比べて多い傾向がある。
 これに対し、稲沢観測所の地下水位は、6月から低下を始め、9月に最低となり、その後上昇して、5月の水位になったのは12月である。
 最多地下水揚水量の月は8月で、最低地下水位の月は9月である。地下水揚水が地下水位低下の原因とすると、地下水位は、揚水月から1月遅れで変化していることになる。
 そこで、地下水揚水量と地下水位の月ごとの変化を比較対照する。地下水揚水量が増え始めた6月の揚水量が地下水位に反映するのは7月であるが、地下水位は6月から低下し始めており、7月以前から低下している。また、地下水揚水量は10月には5月以前の水準になっているが、地下水位は11月に5月以前の水準になっておらず、11月も低下した状態で、12月に5月以前の水準になっている。さらに、地下水位の低下の程度は、地下水揚水量の多かった7〜9月に対応する8〜10月よりも、5〜7月と10〜12月の変化量のほうが大きい。以上のことは、地下水位の低下は、地下水揚水量の変化以外の原因、つまり地下水涵養量の減少を予想させる。そして、当然ながら、7〜10月の地下水位の低下には、地下水涵養量が少なかったことによるものも含まれている。地下水位は、降水による地下水涵養量が少なくなれば低下するので、この地下水位の低下は、降水が非常に少なく地下水涵養量が少なかったからである。乙36p12でも、「平成6年は降水量が非常に少なかったため、地下水位も低下し、沈下域、沈下量とも近年になく大きな値となっている」と記載されている。
 平成6年に年間最低地下水位が下がったといっても、それは、前年の平成5年に比べると下がったにすぎない程度であって、その前の昭和61年〜平成4年の水準と同程度である。さらに前の昭和60年以前とは4m〜13m高く、昭和61年以前の昭和51〜60年の最高地下水位と比較しても、2〜8m高い(乙36p60)。尾張工業用水道供給区域で地盤沈下が激しかったのは、昭和52年頃以前であり、年沈下量が4p以上、10pを超える年もあった(乙36p17の@、A、B)。その頃の沈下量と比べて、平成6年の沈下量は、4p以下、多くは1〜2pであって、格段の違いがあり、その沈下の程度は極めて小さい。そして、平成6年の地盤沈下は、異常気象によるその年限りの現象である。平成6年の地盤沈下は対策として問題になるようなものではないのである。

第5 自治体予測の問題点、特に自治体が抱える過大な財政負担
  (第1釈明書の2について)
 被告等は、「自治体が抱える過大な財政負担」について、「事業認定時において新規利水の必要性を認めており、原告が主張する自治体の財政負担という事情については、判断の必要をみなかった」と、事業認定の判断の枠外にあるかのような主張をしている。
 しかし、その被告等も、新規利水の必要性に関連して、水公団は「本件事業実施計画作成に際し関係県知事と協議し、利水者の意見を聞き、いずれも異議ない旨の回答を得た上、費用負担者から費用負担の同意を得ている」(被告最終準備書面(補充)p6〜7)と、費用負担者である自治体の費用負担の意思を考慮していると主張している。この自治体の費用負担の意思は、その財政負担の可能性、料金収入などの財政的裏づけのあって初めて成り立つことである。
 結局、原告の主張する「自治体が抱える過大な財政負担」と、被告の主張する「費用負担の同意」などは、新規利水開発における自治体の財政負担という同じことがらを違った言葉で表現したに過ぎないのである。したがって、自治体の財政負担は、訴訟法理論でいう単なる事情ではなく、行政処分の判断過程において考慮すべき事項であって、訴訟法理論でいう行政処分の法律要件であることは共通の理解である。



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