徳山ダム建設中止を求める会・事務局ホームページ



《木曽川水系との30年、長良川河口堰・徳山ダム》

在間正史 弁護士

長良川河口堰、木曽川水系との出会い

私の長良川河口堰、そして木曽川水系との出会いは30年前の23歳のときでした。「長良川河口堰に反対する市民の会」(以下、市民の会)の月刊「川吠え」の創刊号を1974年2月に見たときが始まりです。その時、私は司法試験に合格して4月から名古屋で司法修習をする前でした。
名古屋で2年間司法修習生として過ごしたときは、毎週、岐阜に通い、市民の会の一番後ろ、末席にいました。この2年間の生活が私の法律家人生の方向を決定しました。水と環境保護をテーマにした弁護士になろうと思ったのです――。

待ち受けていた訴訟と多くの研究者との出会い

私は、1976年4月に名古屋で弁護士となりました。その年の9月12日、長良川は岐阜県安八町大森字畚場(ふごば)の丸池地点で破堤し、安八町、墨俣町に大水害がおこりました。たまたま、当時の所属事務所が安八町の被害者から訴訟の相談を受け、私も長良川水害訴訟の弁護団に加えてもらいました。正直言って、長良川が決壊したときは仰天しました。しかし、水害訴訟とその後の河口堰訴訟を振り返ると、こういう言い方は性格に合わいなけれども、それはまるで私が弁護士になるのを待っていた。運命のようです。
水害訴訟では、約15年のなかで、破堤原因論の中心を担当し、東京工業大学名誉教授だった故山口柏樹さんのような資料の解析と原因究明の数理に厳密な研究者に出会い、大いに教えられ、深化・成長することが出来ました。それ以外にも多くの研究者が私を成長させてくれました。特に、同じ頃始まった流域下水道訴訟での中西準子さん、そして、後の河口堰建設差し止め訴訟での西條八束さんには、環境問題のとらえ方、資料の読み取り方など、教えられることが多くありました。それらが私の最大の知的財産の一つとなっています。日常的には、田中豊穂さん、最近では、嶋津暉之さん、富樫幸一さん、宮野雄一さん、伊藤達也さんに多くの示唆を受けています。このような多くに研究者に出会えて深化・成長できるのは、一般の弁護士として考えられないことで、幸せであると思っています。

長良川河口堰建設差し止め訴訟の提訴

長良川決壊後、河口堰をめぐる政治情勢は急展開します。建設省などの行政が、この決壊を河口堰建設推進の口実に使い始めたのです。長良川水害訴訟を担当し、決壊原因と河口堰建設とは結びつかないことが判っている私としては、腹立たしく、悔しい思いをした記憶があります。
結局、ご存じのように、1978年9月、岐阜県知事が、長良川河口堰反対共闘会議(以下、共闘会議)の大勢の市民が座り込むなか、機動隊を導入して河口堰建設に同意しました。その時が岐阜県の河口堰反対運動のピークでした。
この知事同意の無効確認・取消を求める訴訟を78年12月に共闘会議が起こすことになり、市民の会の関係から、私が2人の弁護士とともに担当することになりました。そのとき、共闘会議のメンバーであった村瀬惣一(現在81歳)さんと知り合ったのです。それから25年、村瀬さんは私の母と同じ年で親子ほどの年齢の違いがありますが、今も、彼との共同行動が続いています。
この知事同意無効確認請求訴訟の最中の81年3月、漁協を中心とした河口堰差し止め訴訟が取り下げられてしまいました。共闘会議を中心となって、市民が新たに河口堰建設差し止め訴訟を起こすことになり、当然、その訴訟は私がやらなければなりません。第2次河口堰建設差し止め訴訟は、輪中と桑名の住民を中心とする市民による訴訟で、82年4月に岐阜地方裁判所に提訴しました。

河口堰建設反対の孤塁を守る差し止め訴訟

しかし、反対運動の熱気が冷めていくと、訴訟だけが反対運動になってしまい、それが訴訟への参加意欲を削ぐという悪循環が起こってしまいました。ついには、80年代の後半には、実態は、私と村瀬さんだけが支える訴訟になってしまったのです。
しかし、意外と投げやりになることはありませんでした。河口堰建設の問題点が、調べれば調べるほど解ってきたからです。水害訴訟と同時進行であったことも、問題点が解るようになった原因だったかもしれません。知的な高まりもあり、「明らかになった河口堰建設の問題点を、歴史に記しておかなければならない。そのために、訴訟を最後までしっかりと続けよう」そんな気持ちになっていました。多分、村瀬さんもそうであったと思います。
そのようなとき、88年から河口堰建設が動き始めるのと同時に、新しい河口堰建設反対運動が始まったのです。それ以後の経過は、皆さんご存じの通りです。

徳山ダム行政訴訟

河口堰建設が動き始めると、今度は、隣の揖斐川の徳山ダム建設が動き始めました。徳山ダムは、長良川河口堰とともに、木曽川水系水資源開発基本計画の中心的な水源施設の一つです。
この行政側の動きに合わせるかのように、大垣市の市民を中心として「徳山ダム建設中止を求める会」(以下、中止を求める会)の市民運動が始まりました。それまで市民による反対運動のなかった徳山ダムに反対運動が始まったのです。
私、河口堰建設差し止め訴訟の後継として、長良川河口堰住民訴訟に取り組み始めており、徳山ダムにまで首を突っ込むのは大変と思って、遠くから眺めていました。
しかし、中止を求める会が旧徳山村民から水公団未買収の共有地持分を譲り受けたことを知りました。これを知って、私は、もう逃げられないと覚悟しました。やがては必ず土地収用法の事業認定取消や収用裁決取消の訴訟になると思ったからです。この地方で、この種の訴訟を手探りでなく自然な感じで出来るのは私以外にいませんので、必ず依頼にくると思ったからです。そして、今度は、私一人ではなく、6人の弁護士による弁護団となり、仲間が増えました。
徳山ダム事業認定取消訴訟は99年3月に提訴し、後に収用裁決取消訴訟も併合して一つの行政訴訟になり、02年12月に結審しました。公共事業の訴訟としては異例の早期審理の結審です。
徳山ダム行政訴訟は、事業認定の違法を理由とする訴訟ですので、河口堰建設差し止め訴訟では一方的に主張を展開しただけに終わった事業の公共性が訴訟の対象です。訴訟では、水需要による利水上の必要性を中心として審理が行われました。原告側証人として、嶋津暉之さん、富樫幸一さんが意見書を提出して証人となりました。
私も徳山ダム関係の水需給関係と治水関係の図表集を作成し、水需給関係の意見書を2通作成しました。そして、なんと私も証人として証言することになったのです。これは、これまで聞いたことがなく、裁判史上例のないことです。徳山ダム訴訟は、私にとって、河口堰建設差し止め訴訟や長良川水害訴訟の延長です。これらの意見書等は、私のこの30年の木曽川水系の知見に基づいて資料を分析しまとめたものです。弁護士が代理人として一方的な言い分を書き連ねたものではないということが、裁判所も理解してくれて、証人採用したものと思います。

徳山ダム行政訴訟を結審して

この証言とその後の被告との論争を通じて、私は、長良川河口堰と徳山ダムに必要性がないことについて、一層の確信に達しました。論争をすればするほど、理解と確信が深まるばかりでした。
その時の心境を述べたのが、徳山ダム行政訴訟の結審に際して発表した以下の所感です。
<徳山ダム行政訴訟結審に当たっての所感>
本日12月25日、徳山ダム行政訴訟が正式に結審しました。
この裁判を通じて、最高水準の本格的な議論ができました。それも、意見書や証人としてレベルの高い内容のあるお話をしていただきました嶋津暉之先生、富樫幸一先生のおかげです。本当にありがとうございました。
徳山ダム訴訟は、私の個人的な人生史においては、23歳の時に長良川河口堰に出会ってからの木曽川水系30年の集大成でした。「徳山ダム建設中止を求める会」の運動が始まった頃は逃げていましたが、裁判を引き受けて本当によかったと思います。何よりも、私の理解が深まり、成長することができました。ありがとうございます。
最終準備書面の補充書論争を繰り返すほど、理解と確信が深まるばかりです。それで、今日の口頭弁論での発言になった次第です。議論は繰り返せば繰り返すほど、私たちの正しさが明確になって行くのです。論争は大いに望むところです。被告の掛け逃げだけは、許さなければよいのです。

裁判資料
長良川河口堰建設差し止め訴訟の裁判資料が、『論争・長良川河口堰−長良川河口堰建設差止訴訟控訴審資料集−』としてまとめてあります。A4版367頁で送料込みで2000円です。在間EP法律事務所(FAX052−951−2667)に申し込んでください。
徳山ダム行政訴訟の最終準備書書面はA4版173頁ですが、この徳山ダム建設中止を求める会・事務局のHPで閲覧できます。また、思川開発事業を考える流域住民の会のHPのなかの
「徳山ダム問題の分析」でも閲覧できます。



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