徳山ダムを考える 「ダムマネーに揺れた藤橋村」


報告:近藤ゆり子

第1回はじめに

 1998年3月1日、巨大ダム徳山ダム建設予定地の藤橋村で村長選挙が行われた――。
当時、島中敏朗(しまなかとしろう)前村長は、「藤橋村を拓く会」の推すリコール運動の事務局長・横山周導氏を破って再選された。リコール本請求された村長が辞任してまた再選される・・・、常識では考えられない構図である。しかし、これをもって「自治能力のない山村だ」とか「田舎は意識が低い」などという評論は当たらない。投票率97.5%、186票対158票。敗れたとはいえ、この158票のもつ意味はあまりにも大きいものがある。負けが判明した直後の横山陣営は、村の民主化に向けた「藤橋村を拓く会」の更なる前進への決意に満ちていた。横山氏をはじめとする運動の中心メンバーの「敗戦の弁=新たな前進への決意」は内容濃く、格調の高いものであった。
 この「騒動」の発端はいわゆるダムマネーを巡るものであったが、村長選においては徳山ダムは争点にはなってはいなかった。ダムマネーに揺れながらダムが争点にならない背景には、藤橋村と徳山ダムの特殊な関係もあり、水源山間地の普遍的な問題もある。40年あまり前の藤橋村でのダム反対運動の歴史、及び藤橋村リコール運動の代表者の生々しい当時の報告など、「新聞報道にはない藤橋村」を明らかにしていく。

第2回 藤橋村と揖斐川――地理的条件

 木曽三川の西の端、揖斐川は全長121km、流域面積1,840平方kmの河川である。岐阜県揖斐郡藤橋村はその最上流部に位置し、源流の冠山で福井県に接する。藤橋村の人口479人(1996年の統計。実際には村外に住む人たちも含まれる)、有権者数364人(98年2月現在)。集落は横山ダム直下の揖斐川沿いに固まっており、小高い場所でウォッチすれば村人全部の動きを把握できる。村全体の面積は約325平方km、うち山林が約315平方kmで、いずれも岐阜県一である。
 藤橋村は1922年、久瀬村から分村して成立した。面積は70平方kmほど、1950年前後の人口は1,350〜1,400人であった。この頃と比べて、村の面積は4倍半に膨れたのに人口は激減した。64年に完成した横山ダムと、すでに完全に公益性を失いながらなお強権的に推し進められようとしていた徳山ダム計画のせいである。藤橋村はダムマネー流入で全国に名を轟かせた。だが、やはり「ダムで繁栄した村はない」のである。

第3回 横山ダム

 1951年に岐阜県が出した揖斐川上流部のダム建設計画は、53年に建設省に移管され、6月には「調査は今年中に着手」という県知事談話が出された。親(25戸)、鬼姫生(10戸)、川尻(4戸)集落はすべて水没するという話に、村は騒然となった。藤橋村村史(1980年発刊)はこの頃の状況を以下のように記している。

「大垣市を中心とした西濃一市五郡の町村はたび重なる台風によって大きな災害を受けた為に河川改修を強く要望し、横山ダム建設促進の運動を展開しようとしたが、この動きを知った親・鬼姫生の住民はダム建設絶対反対の意志を表明した。(中略)村長は、建設促進運動の中心である大垣市長に対して抗議を申し入れるとともに、地元選出の県会議員棚橋憲吾にダム建設反対運動への協力を依頼した。(中略)昭和三二年一月一五日には横山ダム建設反対期成同盟会を結成して、建設省をはじめ関係方面への反対陳情を開始する一方、住民へは結束を呼びかけた。」

 村史に残る当時の宣言文は、今でも通用する内容をもっている。

「<宣言> 今回政府に於いて計画実施せんとする横山ダムは、われわれ住民の墳墓の地を永久に失わしめ、唯一の食糧源である耕地を湖底に沈め、猶明治二四年の濃尾大震災の如き災害の起こらんか、ダムの崩壊と共に下流住民の生命財産は一瞬にして流出する。これ等物心両面にわたる被害は、如何なる方法を以てしても到底償うことはできない。その他ダム工事施行によってわれわれが受ける悪影響は枚挙にいとまがない。かかる状況下にあるわれわれは住民の幸福と安寧を守るために、一致結束して横山ダムの建設に反対する。右宣言する。
<決議>
一、我々は憲法が保障する我々の財産権並に居住及職業の自由をあくまでも守る。
一、我々は憲法が保障する生活の自由及幸福を追求する権利を奪わんとする横山ダムの建設に反対する。
一、我々は横山ダム建設に対しては立入を拒否し、寸土も譲らず一本の伐採も認めず、凡ゆる意味に於いて協力しない。
  昭和三二年四月二八日 揖斐郡藤橋村村民大会・横山ダム建設反対期成同盟会」。

 しかし村史はこの宣言文の続きで唐突に次のように述べている。

「岐阜県は土木部長和田恒広を中心にして、積極的に公共事業の重要性を呼びかけ、村もまたそれに応える努力を続けた結果、調査のための立入りについてのみを認めるという条件つきで、覚書の調印が昭和三三年三月一七日に行われ、横山ダム建設反対期成同盟会は横山ダム対策同盟会に名称を変えた。(中略)この年は台風の上陸が相次ぎ、八月の一七号台風は揖斐川支流の牧田川を氾濫させて西南濃地方におおきな災害をもたらし、九月には伊勢湾台風が中部地方を襲った。これを契機として横山ダムの必要性が各方面で認識され、根本的な災害防止対策として早期着工が閣議決定されるに至り(中略)、大垣市を中心とした下流受益町村は、水没者受け入れのために横山ダム建設協力会を発足させるなどの体制を整え、ダムの必要性は社会の声となって水没者の心理に影響を与えた。岐阜県知事松野幸泰は、補償交渉の早期解決について、自民党副総裁大野伴睦と協議して、知事が直接斡旋の方針を決め、特に反対の行動をとっている一七人に対し災害防止のために協力するように説得した。」

 この辺りの記述には、当時の社会情勢・風潮がよく表れている。多くの人がダム建設を「公益」「進歩」と信じていたことを背景に、利権に絡む「政治力」が全面展開した。補償交渉の決着をみないまま、1960年「三月末には、工事請負者に間組が決まり、四月に入ると早くもダムサイトには仮排水路工事のハッパの音が響き始めた」。村への公共補償は翌61年2月に調印された。総額6,300万円、500万円でプールができる時代だった。こうした中、下流住民も行政の音頭取りがあったにせよ協力を惜しまなかった。

「横山ダムの早期完成を願う一方で、水没者の受け入れなど積極的な協力を続けている下流二市一五町村は、受益者の志しとして一戸一〇〇円の水没見舞金を募ることを申し合わせて、大がかりな資金カンパを行った。この義金は3回にわけて、総額四〇〇万円が贈られ、村は水没者に均等に配分した。」

 横山ダムの工事時期(1961年〜64年)、2,000人ほどの藤橋村の人口は、工事完成の翌65年には921人まで激減していった。

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第4回 徳山・杉原ダム

 1970年、一時は「幻」と言われた徳山・杉原ダム(杉原ダムは徳山ダムの下池)計画が再浮上する。藤橋村村史は記述する――。

「横山ダム問題解決の経験を持つ藤橋村は村長を中心にして(中略)公共事業への協力が水源地域の過疎に結び付く矛盾を、強く国や県に訴えるとともに、(中略。1971年)名称を藤橋村ダム対策委員会とした。建設省からの調査申し入れに対しては、特に杉原地区住民からの要望の強い、水没同等の補償と生活再建を中心とした七項目の要望書を、十月二五日に提出した。(中略、73年)ダム対策に大きな動きが現れはじめ、十月十八日には徳山ダム実施計画に伴う工事用道路立ち入り調査に関する確認書の調印を行うに至った。(中略。75年6月、ダム対策委)委員長に議会議員島中敏朗を選出し、岐阜県から示された七項目要望事項についての見解が理解できたとして(中略)諸調査を承諾した。(中略)杉原地区の住民は村外移転の希望が強く、ダム完成後の村再建整備に期待をかける村は、公共事業への協力と住民の要望達成の調整に苦慮した。」

 “七項目”の詳細は記されていないが、主要な点は「水没同等補償、移転先で生活再建のできる補償」である。76年2月、村長(杉島菊次)とダム対策委員長(島中敏朗)の連名による岐阜県への申入書の中で「横山ダム建設に伴う村勢力の減退による後遺症からも十分立ち直ることのできない状態にある現在」という認識を示して強く“七項目“の実現を要望している。
 1978年11月、中河芳美村長が就任した。

「杉原対策についての交渉は(中略)、年末には一応の対応策についての合意ができた。この対応策は、杉原地域に村再建整備計画に基づく事業を実施するために、地区内の全住民の移住と用地買収を行い、起業三者はその費用の一部を負担する(中略)というものであった。」「先に完成した横山ダムによって、村の文化経済の中心的役割をはたしている横山地区と一〇キロ余の距離をおいて、分断された杉原地区は(中略)揖斐川上流に取り残された集落となり(中略)、徳山村との人的交流をはじめ、あらゆるつながりをなくしてしまう事になる。こうした心理的な苦痛は過疎へ結び付き、やがては集落の維持すら不能となってくる地域での、生活はできないとした杉原地区住民の願いは、一〇年の歳月を経て杉原地域整備事業として実現することとなった。」

 横山ダムのときと同様、移転住民の大部分は村を出て下流に移り住んだ。「ダム」による過疎が、また進んだのである。
 この藤橋村村史における横山ダム及び杉原ダム対策問題の記述の行間に、水没・移転住民に対する同情を持ちながら、なお「下流のため」「国策だ」という題目を比較的素直に信じていたと受け止めている。ダム建設が不可避なら「個人には最大の補償を、村には最大の助成金を」となるのは当然である。この村史編纂時の藤橋村村長である故中河芳美氏は、「藤橋村を拓く会」の人々には今も一種の尊敬を込めて慕われている。「杉原地区住民の願いは、一〇年の歳月を経て杉原地域整備事業として実現することとなった」という肯定的記述は、藤橋村の当時の多くの村民の率直な気持ちであったように思える。
 多くの人が、自然を制御する人間の無限の力と、高度成長の永続を信じていた時代が確かに存在した。「ダムは下流地域の一致した要望だ。国策には逆らえない」を前提とし、「山村の過疎化は当然の流れ」ととらえる(歪められた政治による人為的な現象ととらえずに)限り、「ダムカードで国や県から多くの金を引き出す」というのが、村政の基本方針となったのは、やむをえなかったともいえる。そしてこの「基本方針」は藤橋村に根を下ろした。そして後に「ダムカード」は一部の業者の利権に結び付き、村長の「独裁カード」になってしまった。振り返って考えれば、ダムマネーは村民全体の生活向上には役立たず、村政の腐敗をもたらすものとなるのは必然であったと言える。しかし、60年代、70年代、小さな山村の為政者にとって、「現実的」に他の選択肢は存在したのだろうか? 今「藤橋村騒動」を嗤う者は、一度は自分の問題としてこのことを考えてほしいと思う。「藤橋村ダムマネー騒動」の真の原因は、山村を収奪しつくしててやまなかった社会システムそのものである。

第5回 徳山村の廃村と編入合併

 1987年、藤橋村はまた大きく変わる。上流の徳山村が廃村となり、藤橋村に編入合併された。旧徳山村から藤橋村に移転した住民はわずかで、人口は増えなかったが、面積は4倍半となった。種々の交付金、水資源開発公団が徳山村への公共補償として支払った分など、藤橋村の財政規模は一挙に拡大し、「基金」という蓄えも増えた。
 旧徳山村と藤橋村は隣どうしではあるが、全く別個の歴史を刻んできた。古くは徳山村と外部との交流は、揖斐川を下って藤橋を通るよりも、峠を越えて北陸との間で行われたり(多くの徳山村住民は、冠山峠を越えた福井県鯖江のお寺の門徒であった)、馬坂峠を越えて根尾村に抜けたりする方が多かった。
 徳山村は「全村水没、村がなくなる」という大問題であり、ダム問題をめぐって村は揺れに揺れた。しかし藤橋村の大部分の人々にとっては、杉原ダムについてさえ「杉原地区の問題」というとらえ方が支配的であり、まして隣村ではあってもつながりの薄い徳山ダムへの関心は深くはなかった。藤橋村の住民にとっては、真剣な議論抜きに「巨大ダム・徳山ダム建設予定地の村」、「徳山ダム建設を前提の“大藤橋村”」がいわば「天から降って」きてしまったといえる。だから徳山ダムに関する藤橋村住民の感覚は、他の「ダム建設予定地の村」とは大きく違う。
 旧徳山村住民には「藤橋村は徳山の者の犠牲の上に、金持ち村になった」「移転しなくても済むはずの杉原地区住民が、徳山村村民以上の補償をとったのは解せない」という感情がある。島中氏の「ダム=金を寄越せ」という路線への反発は強かったが、その反発は藤橋村全体に向けられているとも言える。「少なくとも、島中氏は杉原ダムによる移転住民の一人ではあるが、当時のリコール運動を担った多くの人はダムとは何のかかわりもない。ダム問題は何もわかってはいない」という旧徳山村民もいた。
 藤橋村全体としては徳山ダムへの関心が希薄なまま、ただ「ダム=金の成る木」として位置付けられてきた。「金の成る木」が、村に腐敗と混乱をも運んでいることに気づいて、ようやく徳山ダムについて考える契機が生まれてきていた――。

第6回 島中流「ワンマン政治」

 1991年、中河芳美氏が病没し、島中敏朗氏が村長となった。
 島中氏は、田中角栄に心酔し、目白詣でを自慢していたこともあるといわれていた。一種の人なつこさやエネルギッシュな雰囲気など、手本にしていたようで、そのにじみ出るところは似ていなくもない。「飲ませ食わせも含めて、人を籠絡することには、確かに才能がある」と語る人もいる。藤橋村では、島中氏の一言がすべて、役場の業務には法も規則もなく、議会は(良くても)後から報告を受けるだけ、ときには全く無視される、というのが常態であった、と聞く。
 藤橋村の人々は言う。「平日の昼間でも役場幹部が島中村長の居所を知らないことがしょっちゅうだ。近隣の村の料理屋で昼間から取り巻き業者とよく酒を飲んでいる。」「役場や財団の職員に対しては、自分に逆らうなら首を飛ばす、と公言している。」有権者364人の村である。「選挙は親類の多い者が勝つ。投票前に票の数が分かる。開票作業では立会人が票の筆跡まで確認する。」「電話で投票依頼をすると、“きのう○○さん(島中氏側近)が頼みにきて、帰ったら五千円置いてあったから、あんたには入れられない”と言われてしまう」「郵便物が誰にどこから来たかということも知れ渡ってしまう」「小さな村だから、動きはすぐに見える。よそ者が訪ねて来れば、その日のうちに村中に知れ渡る」「村長を批判的すると、“色々あっても、あの人は老人会への補助を増やしてくれた良い人だ。あまり悪く言うな”という話になってしまう」。多少の誇張はあるにせよ、複数の人の証言だから、概ねは正しいであろう。
 島中氏就任以来、助役3人が交替し、長期にわたって空席となっていた。島中氏の手法にはとてもついていけない、と次々に辞めて、とうとう誰もいなくなってしまった、とささやかれていた。島中村政の初代の助役・杉島寛之氏(「藤橋村を拓く会」代表)は、95年に島中氏に対抗して村長選に立候補した。杉島氏は、「法も規則もあったものではない」恣意的村政だと(建設費用には補助金はついても)維持管理費がかさむ一方のハコモノ建設を批判する。外からもたらされるお金の多さで「金持ち村」と言われる藤橋村は、別の見方をすればいつの日か崩壊必然の「バブル村」であると危機感を募らせた。
 島中氏が村に君臨できるのは、「杉原地区で、本来出るはずのない水没並補償を取ったときにみせた、公団などに金を出させる手腕」と言われている。今回も「島中さんのやり方は良くないが、義理がある」としてリコール署名を拒んだ人も居る。前述の買収の噂は根強くあり、多額の香典や寺への寄付などのなど、権力保持のため金の出所はダムの利権絡みであろうと推測されるが、「島中氏が私腹を肥やしている」というとらえ方は、藤橋村ではあまり聞かない。少なくともこれまでは、島中氏と角突き合わせる立場にない一般の村民にとっては「外から村の中に金をとってくる人」として通っていたのだ。

最終回 「藤橋村騒動」と言われるもの

1996年11月 藤橋村、浄輪寺に5,000万円の追加支出
 杉原地区にあった浄輪寺は、上述の杉原地域整備事業の一環として、89年に7,300万円の補償を受け取って揖斐川町に移転した。「実際に移転してみると1億円不足した」と檀家らが村に陳情し、村は「とりあえず5,000万円」を支払った。寺・檀家によれば「当初から不足は分かっていたが、不足分は後から何とかしてやるから早く契約を、というので契約書に判をついた」とのこと。島中村長がはっきりと不足分補填を約束したかどうかは不明だが、「島中村長なら地元・杉原地区のことだ、どこかから金をもってきて要求通り払ってくれる」という期待を寺・檀家側が抱いていたのは間違いない。この件について、島崎武三村議が「二重払いだ」として監査請求を行う。

1997年2月 「徳山ダム建設事業審議委員会」が早期完成答申を出す。

1997年3月 島中村長の公団等への122億円要求が表面化。
 96年2月に「水源地活性化事業」の名目で要望事業を17項目にまとめて要求。7月に事業費を見積りを添えて、岐阜県が起業三者に提示した。事業費から国・県の補助金分を差し引いた残りの負担を起業三者に求めている。この負担分には施設建設費のほかに維持管理費まで含まれていた。島中氏は、マスコミに対して「(数字に)根拠なんてない。徳山ダム建設費2,540億円の1割位もらってもよい。村はダムという迷惑施設を受け入れるだから」と述べている。この一連の「要求」に関連して、大垣市は島中村長が構想する観光施設「ドーム」3階に展示する「旧徳山村のジオラマ模型」に総額8,000万円、97年度分として3,500万円の助成金を出す予算を組んだが、6月26日=藤橋村での「不信任決議」の前日、大垣市議会は、市当局の要請に従って議会特別委を開き、この予算の撤回を決めた。
この頃、徳山ダム審議委員会の「早期完成」答申及び徳山ダム廃村10周年と重なって、この122億円要求は大きく報道され、併せて、これまで藤橋村が建設してきたさまざまな建物・施設が「税金の無駄遣い」として槍玉に上がった。当時、島中氏はこう語った。「ダムなんかどっちでも良い。金がほしい。金さえかければ人は来る。地域は潤う。私は信念をもっている・・・」。小さな山間の村を活性化させようとしていた村長のこの言葉を聞く側の思いは複雑になる――、しかし。

1997年6月 島中村長と大阪・M商事との「業務契約書」問題起こる
 6月5日 島中氏はM商事と業務委託契約書を交わした。「契約書」には具体的な「業務内容」は記されず「利益は折半」「内容は公表しない」と書かれていた。その「業務内容」についてM商事は、(監査請求を行い島中氏の追い落としを目指していた)「島崎村議の活動をやめさせること」と主張していたが、それは島中氏周辺の関係者の話とも符合した。その時、M商事の社長は丁寧なもの言いであった。「村議の活動を止めさせることを業務とするというのは、公序良俗に反する事柄で、批判せざるを得ない」と迫ったところ、社長は、「その通りで、私らも問題あると認識している。しかし、私ら以上に公職にある村長の方が責任は重い。問題ある業務を委託し、かつ、その支払いの約束を反故にするとは、私ら以上に汚い。村長として失格である」と応じた。
 6月上旬 M商事は島崎村議から「村の活性化に協力する」という念書をとる。
 6月中旬 M商事は島中村長に、業務を履行したとして支払いを要求。島中村長は拒否。(5,000万円とも言われている。村長派村議が「500万円で」と申し出たのをM商事は蹴った、というのは事実とみられていた)。
 6月17日 島崎村議、島中村長と浄輪寺を相手取って「5,000万円支出は二重支出であるから村に返還せよ」と岐阜地方裁判所に提訴。これには市民オンブズマン・ぎふの弁護士が協力した。
 6月下旬 M商事は藤橋村の各村議に電話攻勢をかけ「約束を守らない島中村長を辞めさせよ」と圧力をかける。
 6月27日 藤橋村議会(定数6)の議長を除く全員の連署で島中村長の不信任決議案を議長に提出し、採択。直後に自主解散(自主解散すると不信任決議は無効になる)。
 7月上旬 M商事、藤橋村での街宣活動を活発化。
 7月22日 村議会出直し選挙告示。「村長派4人、反村長派2人」無投票当選。
11月 5日 リコール署名活動の動きが表面化(正式な開始は7日から)。
 署名運動中、リコール運動を担った人々は3回の村民集会を行った。各回30名ほど集まり、活発な意見交換がなされた。3回目には、徳山ダムについて長らく研究され、建設に批判的な愛知大学の渡辺正教授を招いての学習会であった。署名運動の代表者・中川治一氏は「集会で新しい村民と腹を割って話し合えたことが大きな収穫」と述べている。
12月 1日 島崎・樫木両村議、島中村長とS村議を公選法違反(寺の修理費の多額寄付)で揖斐警察署に告発。
12月 8日 藤橋村選管に128名の署名を提出

1998年1月5日 リコール本請求
 1月22日 島中村長辞任。
 この日、島中氏は水資源開発公団徳山ダム建設所を訪れ、徳山ダム水没地の共有林をめぐって公団が目論んでいる強制収用手続きを一歩進める書類を提出し協力を求めた。
 2月24日 村長選挙告示。島中氏とリコール運動の事務局を務めた前村議横山周導氏が立候補。
 3月 1日 投・開票。島中氏は再選された。
2001年10月 島中村長、体調不良を理由に辞職。
「ダムで栄えた村はない」ことを、「藤橋村の騒動」ははっきりと示した。だが水源地山村がダムを受容するのは、山村の人間が愚かだからではない。「公共事業にすがる以外にない」、「国や県に逆らえない」と考えざるをえないような「現実」、経済的に自立できない政治システムが確固として存在するからだ。

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