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岐阜 |
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<湖になる古里>第1部(5)
若者は雪崩打ち離村
「今でもサラリーマンをやめて徳山に住みたいと思う」。岐阜市正木の山田忠さん(54)は故郷への思いを語る。だが思いとは裏腹に、徳山中学卒業後は進学のため古里を離れ、会社員になった。ダム問題が持ち上がって以後、村の若者たちは雪崩を打って村を離れ、町に職を求めた。
「村に就職口はない。中学を出ると離村するのは当然とされていた」。古里を愛する気持ちと現実の間で、山田さんの気持ちは揺れている。
ダム構想が明るみに出たのは、一九五七(昭和三十二)年。このころから日本は高度経済成長の道をひた走る。全国の農山村から都会に若者が流れていった。
旧徳山村ではダム問題が流れに拍車を掛けた。「ダム建設でいずれ村は水没する」。村民の誰もがそう思い、若者は外の世界に目を向けた。
ダム構想が浮上して約十年後。山田さんが中学を卒業する時、同級生約六十人全員が、進学や就職で離村。山田さん自身も岐阜市で高校、大学に通い仕事も見つけた。
「補償金をもらって立派な家を建てても、(職がなければ)その先がない」と見越し、堅実な道を探った。仕事の傍ら遺跡巡りや山菜採りで旧徳山村とのかかわりを持ち続けた。宮ケ原、寺屋敷遺跡など旧石器や縄文時代の遺跡が密集する故郷に、ロマンを感じた。
「村にはウドもゼンマイもなくなった。採り尽くさない不文律があったけど、外から人が来て乱獲していく。水没するから仕方ないかもしれないけど…」。沈むまでもなく、自然まで“徳山”ではなくなってしまった古里に心を痛めている。
「遺跡が水に沈むのは寂しい。ダムには個人的に反対」との思いを持つ。だが「共同体意識の強い地域で、一人だけ反対の声を上げることなんてできない」ともいう。
徳山小山手分校、徳山中を経て岐阜市内に進学、就職した辻陽子さん(42)も、旧徳山村に戻らなかった一人だ。「村にダムがやって来たのではなく、『ダムの村』で育ったようなもの」。計画浮上後の六三年に生まれた辻さんにとって、故郷の水没は定められた運命と受け止めてきた。いまは揖斐川町上南方の表山団地で、夫や子どもら計七人の大家族で暮らす。「子育てに没頭する日々でダムのことは忘れがち。徳山に行くのも年一回」。ふとした瞬間に故郷のことを思い出すが、忙しさで感傷に浸る余裕はない。
「もちろん古里は残ってくれる方がいいが、湛水(たんすい)といっても特別な感情はわかない」というのが本音。古里は遠ざかってしまった。
<旧徳山村の学校事情> 徳山小学校は本郷にあった本校のほか、山手、櫨原(はぜはら)、塚、戸入、門入の5集落に分校を設けた。徳山中学校は2つの分校があったが、1959(昭和34)年に廃止し、翌年、上開田に本校を設置。分校の生徒は学校脇で寮生活を送った。高校はなかった。旧徳山村には新任教諭が赴任することが多く、土曜日に村を下り日曜か月曜の早朝に戻る「土帰月来」と呼ばれる生活を過ごした。
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